平和時おける国家とマスゴミ

ついぞ、文章を書く際にマスコミと普通に書くのは憚(はばか)られ、キチンとマスゴミと書くようにしています。僕にはマスゴミ各社が社是に掲げる崇高そうなキャッチコピーは、野党が無責任に羅列するマニフェストより厚顔無恥だと思っています。

よく、報道がマスメディアを介して時の権力が暴走するのを監視する役割りを担っているのだから、それをもってマスゴミが存在する最低限の意義はあるとエクスキューズされます。

これは錯覚、特にアメリカかぶれした錯覚です。ギリシャ・ローマからキリスト教文明を経由して、たまたま地政学的に産業革命がイギリスで起こったことにより産み出された双子のブースター①理性、科学技術への信仰、②民主主義制度の布教。ここで場違いなアメリカ大陸経由の②が、日本でのマスゴミ成立の誤謬になっている。

イギリスからアメリカに渡ったピューリタンは、かなり数奇な変遷を辿っています。タナボタで入手した新大陸を、その後の征服事業における苦難を神話化し、ご都合主義に陥ったらユダヤの旧約聖書から正当性の根拠を引用して出来た不純物がアメリカにおける「民主主義」であり、その言い逃れ役で必要とされたユダ役が「マスコミ」です。

明治維新から戦時に於ける日本のマスコミュニケーションにも多くの問題はありました。責任の所在の無さは伝統芸であり、論者はさしずめ天皇制がから帰結される日本の権力不在論を述べ、延々と不毛を重ねてきました。

そして、現在。もちろんマスゴミが権力に迎合するのは骨子であり、それが国民をたぶらかしている訳ではありません。マスゴミは現在の日本では正真正銘の虚像なんです。かつてに比べ、ミスコンあがりやグラビアアイドルと等価のフロントフェイスで「教養と美」を装い、豪華な本社ビルやイケメン、下着モデル候補生をシンボリックに並べられると、平和時の大衆はそこに「信仰」を見出しちゃうんですね。