ジル・ドゥルーズ、に詳しい方はあんまり多くないと思いますが、現代哲学に興味が向くと必ずぶちあたる壁、というより読んで最初からスラスラわかるのは不可能。バブル期少し前にブームになった「アンチ・オイディプス」とか、名前買いしただけでチンプンカンプンって思うのが正常です。 その、ドゥルーズの主著「差異と反復」は超絶難解の代名詞で、難攻不落なエベレスト(エベレストは最近はお金を積めば登れちゃいますが)であり、その他の著書も僕は10冊は買っていたとお思いますが、還暦前に理解できていたのは5%に満たなかったとゲロできます。...
なんと言っても「エチカ」
えぇー、この5年間、どんな機におよんでも絶えず読み続けているのがスピノザの「エチカ」です。 東洋人である我々は、東洋的文化、諸宗教の無意識の海にどっぷり浸かっているので、17世紀のオランダ人が書いたものに縋っても無駄、という前提を軽く粉々にできる力能を有しているのは「エチカ」ぐらい。 よく、滅入っているヒトがニーチェに誘われるものですが、あれはカトリックを中心としたドイツ語圏の人間を対象として書かれているので、日本人がアドレナリンを出して勇気を高めるためにニーチェを読む、ってのは彼が嫌った盲目的な信仰に従属するのと本質的には同類です。...
ぼんやりしていて、何が変化しているのかわかりにくい今
もちろん、大衆社会って呼び名は400年前から流布しているので、現在の「ぼんやりしている」のが大衆社会の問題だよぉ~ん、って帰結するのは淡白すぎる。 誰でも感じているとおり、現在進行中の病巣は「偽善者」の増殖拡大。 いろんな指標を駆使して現在を分析しようと横文字を羅列する方々が多いけれど、シンプルに「なんだろう、これは?」ってぼんやり感じたなら、「偽善者」がゾンビの如く増えていると置き換えて考えておけば通用します。...
フーコーは、スキンヘッド
ミシェル・フーコーを、哲学系のひとは「フーコー」、フーコーと簡単に呼び捨てます。フランス人の名前は日本語読みすると「おフランス」って印象される言語的なハードルがあります。で、フーコーですが、業界的には知の巨人と評することが多い。なんで同時代で同じフランス人のジル・ドゥルーズを知の巨人と評さないのかは、単に、若干フーコーの方が読みやすいだけだから、と僕は解しています。...
レヴィ=ストロース「悲しき熱帯」
半世紀前に、構造主義としてもてはやされた「ものの見方」の慧眼がレヴィ=ストロース。「もの」は「者」でも「モノ」でも、要するに人間がどう対象を見ているか、を未開の民族をタネにして論説している美文が「悲しき熱帯」 もう、タイトルの「悲しき熱帯」と、言いたいことのギャップだけで一本勝ちです。ノーベル文学賞も授与され、世に抵抗して同じくノーベル文学賞を与えられたのに、受賞を拒否したジャン=ポール・サルトルを、結果的にはコテンパにやっつけてるのだけど、 レヴィ=ストロース はその文体は熱くてとてもスマートです。...
唯一者とその所有
マックス・シュテルナー、この著者を知ってる方はまずいない。僕もごく最近になって初めて知り、既存で発行されている書物がこの一冊のみというのも極めてまれ。 誕生日が同じ(僕とね)、それと死に方が「毒蛇に噛まれて野垂れ死んだ」というだけで親近感を持ったためか、この排他的で読者を選ぶ文体に意外とスンナリ滑りこめました。 若者や一定以上の学識がない方を初めから相手にするつもりがシュテルナーにはありません。ゼロです。この暴力的な意志が圧巻。実は内容も最初から最後まで和やかではありません。なのに比喩は機知に富み、軽やかさも有する文体は天賦の才としかいえません。...
大量に製造される美について
美とは異なるけれど、かつては「圧倒的な」被造物が発する凄みを<オーラ>とウォルター・ベンヤミンは定義しました。例えばダヴィンチの「モナリザ」やエジソンが完成させた最初の「電球」とかです。 もちろん、創作されたその時代のその瞬間を想像できない方はこのブログを読んでも時間の無駄です。ピンとくる方は「モナリザ」と「電球」を比喩にあげただけで、ベンヤミンが放つ無二のインスピレーションに感覚が少し麻痺します。ペンヤミンは 「圧倒的な」被造物 でも複製されるとオーラ は薄れる、と指摘しています。要するにタイミングであって、現代の複写印刷の登場をもって...
A fresh, green breast of the new world. 華麗なるギャツビーから
スコット・フィッツジェラルド。若いころ、こんなカッチョいい作者名と書名が「華麗なるギャツビー」とかだけでもう、ページをめくるの回避するぐらい、親和性のない存在の代表格がこれ。華麗なるナンチャラって、よくまー取ってつけたような和名をタイトルにしたもんだ。かつての有名車「マークⅡ」みたいなノリだったのか。 若干、近寄りがたさを緩和させてくれたのは、村上春樹が翻訳することの極意と楽しみは、この本の最初と最後を訳するために翻訳修業を重ねてきた、って前置きしながら上梓した「グレードギャツビー」のその部分を読んだとき。...