大量に製造される美について

美とは異なるけれど、かつては「圧倒的な」被造物が発する凄みを<オーラ>とウォルター・ベンヤミンは定義しました。例えばダヴィンチの「モナリザ」やエジソンが完成させた最初の「電球」とかです。

もちろん、創作されたその時代のその瞬間を想像できない方はこのブログを読んでも時間の無駄です。ピンとくる方は「モナリザ」と「電球」を比喩にあげただけで、ベンヤミンが放つ無二のインスピレーションに感覚が少し麻痺します。ペンヤミンは 「圧倒的な」被造物 でも複製されるとオーラ は薄れる、と指摘しています。要するにタイミングであって、現代の複写印刷の登場をもって 「モナリザ」 のオーラは減じ、エジソンの電球の価値も大量生産によって見えなくなります。

翻って美では、どうでしょうか?

美にはプラトンのイデアのような天上界のアイコンと、現生の人間を中心した諸ブツの総体である「評価基準」に認定される美があります。イデアはよわからなくても、美の評価基準とかは容易に理解できますね。目がくっきりしていて鼻筋がシャープ、身体のプロポーションはバッチリという美。端的に言えば佐々木希は美しい、という見方です。

では「量産型の美」の大量生産が技術的に可能となり、死すべき運命の人間に、この量産型の美による幸福が多数に分配されてもいるわけですが、さてさてこんなふうに我らはとうとう、美を感じることも家畜化されてしまったのか…..