徳川幕府の250年間続いた平和の世、ってのは帝国主義諸外国が日本に攻めにくるには、日本はあまりにも「極東」で遠すぎ、近くの大国「中国」も常識を逸脱した秀吉の大陸出兵で、清朝になってからも敢えて日本は刺激せずとのトラウマが功を奏し、250年という世界史的に見ると極めてまれな平和を享受しました。
今の、日本の平和は、日本固有の「狂気」が飼いならされたポチになっているが為。平和の定義をただ一元的に戦争のない状況としただけでいいのか?と逆説的を問うても、理性は世界史の引き出しから「そのとおり、平和とは戦争がない状態」と問答無用です。
さて、第二次世界大戦後の3世代にわたっている平和の真っ最中の所感で言えば「馴染めない」な。マックス・シュテルナーが170年前に来るべき民主主義、資本主義、社会主義、共産主義、もひとつオマケに自由が全てだ万歳主義も、人類にはまだ到底望みえないと看破した絶望に僕は親和性を感じる。
トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』を勝る政治機構を、あと千年かけても人類は得られないないだろうし、大衆の繁殖は戦時より平和の時にこそ底なしにまん延するのを毎日、僕たちは見ている。